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スポーツの可能性

執筆者の写真: tikedacoachtikedacoach

日本にとって今回最も衝撃的なニュースが報じられた。

タレントの志村けんさんの死だ。

私にとってまだまだ対岸の火事のような感覚が拭えなかったが、相当な悲しみと共にある想いに冷静に直面している。


それが「スポーツの可能性」についてだ。

スポーツが人々に与える影響、効果のようなものに対して、あまりにも過大に捉え過ぎているのかなと考えるようになった。

これは例えばエンターテインメントの世界でも言えると思うが、余興・余暇の過ごし方のひとつであり、これらが今回のような問題に直面した時にそもそもの在り方自体を履き違えてしまい、情報発信し、行動を促し、更なる問題の巨大化を推進してしまってるのではないか?という疑念のような思いに苛まれるのだ。

スポーツをしている=健康

「ウイルスにも負けない」

「皆で想いや感動を共有することで困難を乗り越えられる」


…今はこんな想い、考えは”捨てなければならない”のかもしれない。

今までの方法でスポーツに興じることは当面難しいだろう。

ウイルスのような見えない敵との闘いに、運動能力は関係ない。

これから我々人類が元の生活に戻るのに何が必要か、その答えを知っている人はどれだけいるだろう。。

原点回帰が必要なのかもしれない。と思う。

スポーツ、エンターテインメント等に触れるのは、衣食住を基本としての人としての営みがあり、その先さらに充実した人生を送るための手段のひとつなのだと、捉えなければならない。

スポーツは誰かに強制されるものでもないし、スポーツが人類存亡危機の困難を乗り越える為の切り札でもないのだ。

覚悟の時

そんな想いを抱きながら、自分に今出来ることは何なのか?と問う。

現在、様々な活動拠点・活動方法のチームを対象に指導に携わっている中で、これがすべて停止する可能性はあり得る。

そうした事を冷静に考えると、「失う覚悟」も持たなければならない。

逆に言えば、そうした環境下でお互いがお互いに依存しないこと。人間の本来持つエネルギーの使い方は、生きることに注がれるべきであり、スポーツをして失っていては元も子もない。

自主性、主体性の確立がスポーツに出来るのであれば、ここまで大きな問題にはならなかっただろう。もっと隣国の問題を主体的に捉え、国内で感染が発生すれば更に自分自身を律し、自己管理して他人の行動に依存せず困難に立ち向かう行動が出来たのではないだろうか?

また、音楽や表現の世界でそうした訴えをした時に、主体的に捉えて行動に変換出来たのではないだろうか?

でも、今現在その効果は出ているのか、疑問ではないだろうか?

出来ることから

私は前述のように様々なカタチでGKを中心に指導現場に立っている。

活動チーム、団体によって私のタスクが裁量によって変わってくる。大きく分けて2つに分類される。

  1. クライアントありきの設定

  2. 自身で設定

サッカー教室、クラブチーム、部活動、少年団、GKスクールの運営などに分類される。

何が今必要で、それがチーム/(選手ら)子ども達にとって、どれだけ重要かをしっかり考えて行動しないといけない。

それが”今出来ること”です。


くれぐれも皆様には、感染リスクの排除と予防の徹底、またその疑いがある時に迅速な対処を心掛けて頂きたいと思います。

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